■倫理的意志決定に関する事例
事例1:設計チーフの過労死
プロポーザルに当選し設計を進めるに当たって、その担当チーフは関係者及び自らの期待する所に応えようと、過密な長時間勤務を行った末、交通事故死を招いてしまった。
(1)経緯
大都市近郊で建築設計事務所に勤務する中堅の建築士Aさんは、近隣の自治体から受注したコミュニティー施設の設計を、担当チーフとして取りまとめていくことになった。このプロポーザル(技術提案)に、事務所からAさんを中心とするチームが指名されて応募し、首尾よく当選した訳である。この設計に対して、事務所から技術的にも経営的にも期待される所には大変大きいものがあった。また、Aさん自身にとっても、計画から設計、監理まで一貫して担当するのは初めてで、設計者としてデビューするまたとない機会として、ベストを尽くす決意であった。
Aさんは、役所の窓口担当者と打合せをしながら、設計を進めていったが、この担当者の不慣れもあって、一度取り決めた設計内容が次にはひっくり返されて元に戻ることもしばしばだった。また、Aさんの提案した計画には、技術的な面やコスト面から解決しなければならない課題があり、この対応に手間取ったこともあって、設計は当初の作業工程から大幅に遅れだした。担当チーフとしての責任感からこの遅れを挽回しようと、Aさんの作業は早朝から深夜まで及ぶようになった。役所や地元の人たちに満足してもらい、事務所の期待に応えて、また自らのデザインも開花させたい一心であった。
Aさんの上司であるBさんも、かつてはAさんと同様に設計チーフを経験していたこともあって、Aさんの意気込みが理解できた。この設計工程の遅れを回復するためには、チームへスタッフの増員を図ることを考えてみたが、同じ時期に並行して進む他の業務との兼ね合いもあって、事務所の限りある人材の中から補充できるのは、入所間もない若手スタッフだけであった。このスタッフを受け入れるためには、予め設計上の問題点を整理し、解決しておくことが前提となる。しかし、そのためにAさんには、さらに多くの負担が課せられることになり、この悪循環をどう断ち切るかが新たな問題として浮上してきた。
次いで考えられる解決策として、発注者である役所の意思決定の遅れと変更が大きく遅れを招いたことから、その分について設計期間の延長を要請すること、そして設計スタッフとしてキャリアのある人材を社外から調達すること、または外注することを事務所所長に提言した。前者については、役所への今後の営業活動に悪影響が出かねないこと、後者は設計に要する制作費が増大して採算が悪化するとして、経営面から否定的な見解が示され、Bさんは双方とも断念してしまった。
Bさんは、このジレンマから脱するために、Aさんの上司であり、先輩所員であるが、自らをAさんの下のスタッフとして位置づけ、直接作業に参加していくこも考えてみた。しかし、AさんはBさんに対する遠慮もあって、この考えには今一つ関心を示さなかったこともあって、他の方策も思い浮かばないまま、BさんはAさんの意気込みと努力をひたすら頼みにして、若手スタッフの補充を得て多少なりとも設計の遅れを取り戻していかざるを得なかった。
そして、間もなく悲劇が起こった。Aさんは車を運転して役所へ打合せに向かう路上、居眠りから運転を誤って帰らぬ人となってしまった。
BさんはAさんの遺族に、Aさんが設計チーフとしてどのように設計に携わってきたか、その人となりや心境にも触れながら報告を行った。チームのスタッフ一人ひとりの作業を見守り、設計全般をバランスよく進め、取りまとめてチーフとしての役割を果たそうと努めてきた。また、設計者としての創造意欲の下に納得のいくコミュニティー施設を目指して、長時間の作業を厭わずに設計に当たってきたことを述べて、Aさんの精励への敬意とあわせて哀悼の意を表した。
この後、Aさんの遺族から、事故の原因が長時間労働による過労にあったとして、設計スタッフを管理する事業所としての責任が指摘され、損害賠償を請求する訴訟が起こされた。数度の公判の後、裁判所から和解案が提示され、これを機に和解金の支払いを伴って決着を見た。
(2)問題の認識
建築設計は意匠、構造、設備、外構等の設計や積算・見積等と多くの分野にわたる業務を、それぞれの分野の専門技術者からなる設計チームを編成して、協働して進めていく。Aさんは、この意匠設計のチーフとして、スタッフと協働して意匠設計を取りまとめ、同時にこのコミュニティーセンターの設計全般についても設計作業を掌握して取りまとめていく役割を担ったが、その技術力、指導力、さらには人間性についても申し分なく、まさしく適任であった。
一方、Bさんは自分の経験を通じて、設計チーフとしてモチベーションを高めていくのが建築に対する尽きることのない創造意欲であり、その達成のよろこびであることを理解して、Aさんの胸中を気遣い、尊重した訳である。しかし、同時にBさんは上司として設計の遅れに対処するAさんに対して、より客観的な立場から指導、助言し、協同してに対応策を講じ、解決を図る立場にあったはずであった。
(3)放置した場合、現在あるいは将来の予測
Bさんは、Aさんの作品づくりについての理解者、擁護者であったが、管理者、あるいは指導者として果たすべき役割が果たせないまま悲劇が生じてしまった。チームとスタッフの作業を見守り、適切に指導をすること、そして発生した問題について助言し、解決を図ることであり、遺族から事務所の責任として問われた点である。
(4)当該案件の具体的対象法令と罰則規定
勤務時間は、労働基準法により上限が定められ、これを超える場合の必要措置(36協定)が規定されている。建築設計業務の実情は、IT機器による合理化が進められてきたが、複雑化・高度化した設計内容への対応やコンペ・プロポーザル等応募の増大のために、過重残業による長時間勤務が常態化している。その結果過労死とみなされる場合には、遺族から労災認定訴訟と損害賠償請求が度々行われるようになった。この件は交通事故死ではあるが、事務所としてAさんの作業量の縮小を図る対策を講じることなく、スタッフ管理上の過失による過労死の一態様にみなされた訳である。
36協定は、労働基準法に定める労働時間(1週40時間、1日8時間)を超えて労働させる場合、あらかじめ労使で締結して労働基準監督署に届け出る義務がある。この協定で定めた限度を超えて労働させた場合、業務上の必要による場合でも、法違反が問われる。
(5)解決のポイント
Bさんは上司として、問題解決に必要な適切な助言と指導を行いながら解決を図るべきであった。発注者及び事務所に設計の進捗状況を充分に説明して理解を得て、設計工期の延長、社外からの人材の補強を要請することであり、Bさん自身の設計作業への関わり方についてAさんと忌憚なく話し合うべきであった。